球形の荒野

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昭和三十六年、初夏。関西での取材を終えた新聞記者添田は、大和路で婚約者の野上久美子と合流した。大和路は久美子の亡き父・野上顕一郎がこよなく愛した処であり、彼女は亡父に自分の第二の人生の出発を告げに来ていた。ところが唐招提寺の拝観者芳名帳の中に、亡き父にそっくりの、中国の古人・米帯の書に習った筆跡を発見した。翌日、久美子は添田を伴って筆跡の確認に向かうが、その部分だけが破りとられていた。二人は帰京すると、久美子の母・孝子にこの事を話すが、とりあってくれない。しかし、添田は何となく判然としなかった。久美子の父・顕一郎は、第二次大戦末期、ヨーロッパの某中立国公使館で、一等書記官を務めていたが、終戦一年前、任地で病のため客死した、と当時の正式な公電によって伝えられている。添田は、当時野上の部下で、現在外務省欧亜局課長の村尾、当時現地の特派員で公使館に出入りしていた滝に会ったが、不思議に二人とも反応は冷淡だった。添田が、ますます野上の死に疑問を持った頃、久美子の周辺に奇妙な出来事が続いた。名も用件も告げない電話や、商品が届けられるのだ。元公使館付軍人、伊東が訪問したのもこの頃だった。ある日、久美子と孝子は何者かに歌舞伎座に招待された。添田も内緒で二人の後に歌舞伎座に入ると、そこには村尾、滝、伊東も来ていた。この不思議なめぐりあわせに、添田は久美子の父が生きて、この日本に来ている事を確信した……。長崎。天主堂の見える墓地にひとりの男が佇んでいる。ロベール・ヴァンネード--野上顕一郎である。必死の調査によってヴァンネードが野上である事を知った添田も長崎へやって来た。だが、野上は京都へ発った後だった。京都。野上は滝と当時を回顧していた。野上は、戦争末期、国を捨て、妻子を捨て、日本人である事を喪失してまでも日本を破滅の淵から救うために連合国側と接触した。こうした和平工作を、野上を、伊東たち軍人が憎しみぬいていた。突然、二人に村尾から電話がかかり、当時公使館付書記生で、久美子に会わせるべく野上を日本に呼んだ内田が殺されたと知らされた。犯人は伊東に違いなかった。やがて、野上は伊東に呼び出された。だが、約束の時間に伊東は姿を見せなかった。翌日の新聞に、伊東が自殺した事を報道していた……。村尾、滝から野上の行方を聞き出した添田は、久美子に会いに行くように言った。だが、久美子は会いたいと思いながらも、自分たちを捨てた父を許すことができなかった。観音崎。岩にくだける白いしぶきを見つめている久美子に、東洋的な顔だちをした白髪の紳士が近づいた。「海がお好きですか」「はい……あなたも?」まじろぎもしないで紳士を見ている久美子。久美子は、全身で“父”の存在を感じていた。



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