王将(1948)

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時は明治も終わりごろ、大阪は天王寺付近、がけ下の長屋住まいで麻裏草履をこしらえてその日暮らしのしがない稼業、これが坂田三吉という男で、将棋が三度の飯より好き、好きこそものの上手なれで、玄人はだしの腕前、手合わせする者は素人も有段者も相手構わぬナデ切り、負けたためしがないという、勝てばそのやまいがますますこうずるのは当たり前、やれ春季大会のそれ何々主催の将棋会のとあちらこちらに手を出した挙句、家業はおろそかになる収入は減る、おまけに会費などと余計な出費で倍金はかさむ一方、家財道具は持出す、狭い長屋の一室は空っぽという有様、女房の小春は青息吐息、何度亭主に意見したか知れぬが三吉はあらためるどころの沙汰ではなく、関根七段との千日手の一局で、その執念は恐ろしいばかり、小春は娘の玉江を連れて家出した事も一度や二度ではない、その度に自分のいなくなった後、子供の様に愚かな三吉がどんなになるだろうと心配してはもどって来るこころ優しい小春であった。しかし今日も今日とて朝日新聞主催の将棋大会に、会費の二円を工面するに事欠いて、玉江の一張羅の晴衣を質に置いて出掛けた始末の三吉。小春はそれを知り今はこれまでと、娘をつれて自殺を計る可く鉄道線路の方に出ていった。勝負半ば注進に驚いた三吉が駒を放り出して飛んで帰り、長屋の皆とやっとの事、小春母子の生命をとりとめ以後はすっぽり将棋をやめると誓うが、反って小春はその必死の気組みに心変わり、いっそやるなら日本一の将棋差しになれと励ました、折も折関根八段が来阪し、三吉と平合わせた。相方ゆずらぬ熱戦の後、終盤近く三吉の打込んだ窮余の一手二五銀が命取り、関根七段は敗退する。それ以来何年、十何年、大正に入り三吉と関根は追いつ追われつ、三吉が次第に勝越す。坂田三吉の名は天下にとどろいた。当時無学非識字者の三吉も既に長年の芸の修練で人間的にも完成されつつあった。関根は八段となり三吉は七段。名人位をかけた一戦も三吉の勝とはなったが、丁度病床にふしていた小春の積年の望みも空しく名人位は関根八段に冠せられた。その祝詞をのぶべく小春に内緒で上京した三吉は、関根名人との会見の席上、自分をここまで仕立ててくれた最愛の妻小春のふ報を聞かねばならなかった--。



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